装飾

大陸記

CODEX CONTINENTALIS

第七巻 第三節

フォルカの渡し場

De Transitu Folca

著者 イーノ・タランタッカ

商人にして旅人、この世界の広さを測ることに生涯を捧げし者

世界は広い。そのことは誰もが知っている。だが、どれだけ広いのかを正確に見極めようとした者がどれほど居たであろうか。余はその一人でありたいと願った。そして旅に出た。

── 『大陸記』序文より

余がこの書を著すにあたり、いかなる土地の記述から筆を起こすべきかについて、長く逡巡した時期があった。大陸の東端から西端まで、余の足が踏み締めた土の数は膨大であり、いずれの土地にもそれぞれの匂いと色と言葉があった。しかるに筆を執る段になって最初に瞼の裏に浮かんだのは、あの丘の上から見下ろしたミルノ川の光景であった。

故にこの節はフォルカに捧げる。余がかの渡し場に初めて足を踏み入れたのは、今より二十と三年前の春の事である。

第一章 丘上の眺望

ミルノ川の丘上からの眺望
ミルノ川遠望 ── 丘上より南方を臨む

南街道を馬車にて南下すること半日、カンネンベルクの宿場とメルリンゲンの湯治場を過ぎ、銀葉の常緑樹が街道の両脇に並ぶ緩やかな丘陵を登りつめると、不意に視界が開ける。そこで旅人は息を呑むことになる。

眼下にミルノ川が横たわっている。幅は百メトルを優に超え、深い翡翠色の水面がゆるやかに蛇行しながら東西に延びてゆく。両岸には枝垂れた木々が水面に向かって腕を伸ばし、川面の陽光は細かい金粉を撒いたかの如く散っている。対岸は平坦な沃野がどこまでも続き、地平線の際に霞んだ建物の影が僅かに見える。

この眺めについて余は多くの言葉を費やすことができる。だが言葉で尽くすことは、恐らく永久に叶わぬであろう。余はただ一つの事だけを此処に記す。余はこの丘の上に立った時、世界の広さを知りたいという欲求が己の内に芽生えたことを明瞭に自覚した。それまで商いの為に旅をしていた余の足は、この日より世界の広さそのものの為に歩き始めたのである。

第二章 フォルカの町

フォルカの町全景
フォルカ全景 ── ミルノ川北岸より

フォルカはミルノ川の北岸に張り付くようにして在る小さな町である。石造りの建物が河岸に沿って並び、川に突き出す形で桟橋が三本。渡し船が常に一艘ないし二艘、桟橋に繋がれて水面の揺らぎに身を委ねている。

町の規模は決して大きくはない。だが規模の小ささとは裏腹に、この町を経由せずに帝国へ入ることは甚だ困難である。上流の渡し場は山岳地帯の急流に阻まれ、下流は湿地帯が行く手を遮る。フォルカはその中間にあって、穏やかな流れと十分な川幅を兼ね備えた、渡河に最も適した地点に位置しているのだ。

フォルカの街路
フォルカの目抜き通り ── 桟橋に向かう石畳の道

故に此処は古くより人と物と金の通り道であった。自治都市帯と帝国管轄の境界付近に位置するという地理的条件が、この小さな渡し場の町に不釣り合いなほどの商業的重要性を与えている。街路は狭いが石畳が敷かれ、小さな商店が軒を連ねている。食料品、旅具、馬の蹄鉄、薬草、そして何よりも両替の看板が目につく。

第三章 渡し場と船

フォルカの桟橋と渡し船
渡し場の桟橋 ── 繋がれた渡し船

桟橋は三本ある。最も大きな中央の桟橋が人と荷馬車の渡し場で、左右の二本はそれぞれ漁船と雑貨の荷揚げに使われている。渡し船は底の平たい幅広の船で、片道に四半刻ほどを要する。馬車ごと積み込めるだけの甲板を持ち、船頭は二名が竿と帆を操る。風が良ければ帆だけで渡れるが、風の無い日には竿で川底を突いて進む。

余がかの渡し船に初めて乗り込んだ朝、水面は鏡のように凪いでいた。竿が水を割る音だけが響き、北岸が遠ざかってゆくのを余はただ黙って見ていた。あの時に余が何を思ったかと問われれば、余はこう答えるほかない。何も考えてはいなかった。ただ世界が広いということを、言葉ではなく身体で理解しつつある最中であった、と。

対岸に着いた時、足元の土の色が変わっていた。北岸の灰色がかった土とは異なり、帝国側の土は赤みを帯びた褐色である。これは土中の鉄分と魔力の含有量に由来するものであって、帝国の大地が「土の魔力」に満ちているという事実を、足の裏で最初に教えてくれるのがこの川岸の赤い土なのだ。

第四章 地誌

フォルカ周辺の地図
フォルカ周辺略図 ── 南街道の北方よりミルノ川を経て帝国領に至る

フォルカの地理的位置についてもう少し詳しく述べておく必要があるだろう。この町は南街道の沿線にあり、北方のマルディン鉱山町から馬車で数日の距離に位置する。途中にはカンネンベルクの宿場町とメルリンゲンの温泉場がある。カンネンベルクは黒パンと黄蕪の名産地であり、メルリンゲンは鉄泉で知られる小さな湯治集落である。

フォルカより南、すなわちミルノ川の対岸は帝国の版図である。ただし明確な国境線が引かれているわけではない。王国と帝国の間には六つないし七つの自治都市が緩衝地帯として連なっており、いずれかの軍が自治都市に立ち入ることは自治権の侵害として重大な外交問題を引き起こす。この曖昧な政治的地理こそが、フォルカのような渡し場の町に商業的な自由を与えている原因でもある。

帝国の舗装街道に入ると、至る所に里程標が立っている。鷲の紋章と四方の都市までの距離が刻まれた石柱で、帝国土木局が管理している。距離の単位はレグアと言い、一レグアは凡そ四と三分の一ミルに相当する。帝都までは百四レグアと里程標にはあったが、余はこの数字の信憑性を実地に検証するまでに更に三年の歳月を要した。その検証の記録は本書第九巻に譲る。

第五章 両替と商いの道

フォルカの両替屋
両替屋の店先 ── 天秤と銀貨

旅人がフォルカで最初に為すべき事は両替である。王国銀貨を帝国のロート銀貨に換えておかねば、対岸の宿で一夜の床すら得られない。余は先に述べた通りフォルカの両替の率を賞賛するが、ここで一つの助言を付しておく。

桟橋の近くに並ぶ両替屋は三軒あるが、最も手前の一軒には近づかぬ方が良い。余が訪れた当時、此の店は銀貨の重量を量る天秤に細工をしてあり、旅人の王国銀貨を実際よりも軽く量り、帝国銀貨を重く量ることで不当な差額を得ていた。余は商人であるから天秤の傾きに気づいたが、旅慣れぬ者は容易に欺かれるであろう。奥から二軒目の店がもっとも信頼に足る。禿頭に髭の大きな男が主人で、無愛想ではあるが天秤は正直である。

第六章 帝国の舗装街道

帝国の舗装街道と里程標
帝国の舗装街道 ── 鷲の紋章を冠した里程標

ミルノ川を渡り帝国の土を踏むと、まず足元が変わる。王国の街道は土を踏み固めた道であるが、帝国は国主の命により主要な街道の全てが石で舗装されている。馬車の車輪の軋みが一変し、蹄の音が硬い反響を返す。この舗装を維持管理しているのが帝国土木局であり、里程標の設置と修繕もまた彼らの仕事である。

余はこの里程標に強い関心を抱いた。何となれば、余の旅の目的がまさに世界の広さを正確に測ることにあったからだ。帝国は四方の距離を石に刻んでその数値を全土に公開するという壮挙を成し遂げている。だが余が実地に歩測してみると、里程標に記された数値と余の計算との間に少なからぬ齟齬があった。この齟齬の原因について余は仮説を立てたが、それを検証するには帝国の測量技術そのものを調べる必要があった。帝国土木局の測量士に話を聞く機会を得たのは、更に後年のことである。

結語

フォルカは小さな町である。しかるにこの小さな町は、二つの世界の境目に在る。北は山がちな王国の領域、南は平坦な帝国の版図。フォルカはその間に在って、旅人に世界の継ぎ目を見せてくれる。

余がこの大陸記を著す契機となったのは、あの丘の上から見たミルノ川の景色であった。世界の広さを知りたいという欲求は、あの一瞬に生まれた。故に余はフォルカに感謝している。余の旅はあの丘から始まったのだ。

この書を読む者が何時の日かフォルカの丘に立ち、余と同じ景色を見ることがあるならば、それは余にとって商いの利益よりも遥かに大きな喜びである。

世界を測ることは、世界を愛することと同義である。

── イーノ・タランタッカ

本書は架空の世界におけるフィクションであり、実在の人物・団体・国家とは一切関係ありません。

なお、著者イーノ・タランタッカは伊能忠敬(いのうただたか)とは何の関係もありません。名前が似ているのは偶然の一致です。大陸を測量した商人であるという点においても、まったくの偶然であることを此処に強調しておきます。本当に偶然です。